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【見学】清酒発祥の地・鴻池稲荷祠碑(兵庫・伊丹) - 江戸時代の豪商・鴻池家の始祖が酒造を行っていた地

関西に2つある”清酒発祥の地”のひとつ、兵庫県伊丹市の「鴻池稲荷祠碑[こうのいけいなりしひ]」を訪ねました(もう一つの清酒発祥の地は、奈良県の正暦寺です)。江戸時代の豪商・鴻池家の発祥地であり、”始祖”の鴻池新六(尚文)はこの地で酒造業を行っていました。後に彼の一族が海運や両替商に事業を拡大し、鴻池家は江戸時代における最大の財閥になりました。鴻池家の”初代”は新六の八男・鴻池善右衛門(正成)で、代々その名が受け継がれていました。

日時:2016年7月10日(日) 18:00頃~
場所:鴻池稲荷祠碑(伊丹市鴻池6丁目14)
内容:自由見学
料金:無料

★アクセス
JR伊丹駅または阪急伊丹駅から伊丹市営バス2系統”荒牧バラ公園”行きに乗り、鴻池停留所で下車。バス停から目的地までは約210mです。所要時間はJR駅から約20分、阪急駅から約15分で、バスの運賃は210円です。この日は大阪府豊中市内から車で連れて行ってもらいました。

★鴻池稲荷祠碑
160710 (77)伊丹・清酒発祥の地碑_公園入口
鴻池稲荷祠碑は、鴻池児童遊園地の中にあります。ありふれた児童公園で、入園料はもちろんかかりません。
160710 (107)伊丹・清酒発祥の地碑_全景
こじんまりした公園の一角にある石碑と説明書き。鴻池稲荷祠碑は伊丹市指定文化財に指定されています(平成3年12月26日付)。

★鴻池稲荷祠碑の構造と由来
160710 (87)伊丹・清酒発祥の地碑
亀の形をした台石「亀趺[きふ]」(花崗岩製)の上に、鴻池家の由来を記した碑(砂岩性)が立っています。碑は、中国の古代貨幣「布貨[ふか]」の形をしています。銘文は、江戸時代後期の儒学者、中井履軒[なかいりけん]が鴻池家に依頼されて書いたものです。

①石碑
160710 (104)伊丹・清酒発祥の地碑_碑文拡大1
160710 (105)伊丹・清酒発祥の地碑_碑文拡大2
上部の凸出部を篆額[てんがく]に見立て、右に「稲荷」、左に「祠碑」の文字が篆書(漢字の書体の一種)で刻まれています。

②亀趺
160710 (93)伊丹・清酒発祥の地碑_亀趺(顔アップ)
亀に似た中国の伝説上の生物「贔屓[ひいき・びし]」が石碑の台になっているものを「亀趺[きふ]」といいます。
160710 (80)伊丹・清酒発祥の地碑_亀趺(正面)
160710 (92)伊丹・清酒発祥の地碑_亀趺(ヨコ)
160710 (90)伊丹・清酒発祥の地碑_亀趺(背面)
中国の伝説によると、贔屓は竜生九子(龍が生んだ9頭の神獣)のひとつで、重きを負うことを好むといわれています。そのため、古来より石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かったそうです。日本の諺の「贔屓の引き倒し(意味:ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする)」は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れることに由来しています。
「贔屓」は古くは「贔屭」と書かれていました。「贔」は「貝」が三つで、財貨が多くあることを表し、「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、財貨を多く抱えることを表しています。この「財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、「盛んに力を使う」、「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになったそうです。

★碑文(案内板より)
160710 (78)伊丹・清酒発祥の地碑_説明書き
石碑の横の案内板には、碑文の翻訳文が記されていました。以下、案内板からの引用です。

”鴻池家は酒造によって財をなし、慶長5年(1600年)から200年も続いている。その初代(=始祖?)は幸元[ゆきもと]で山中鹿之介(正しくは鹿介)の子孫であると言われている。鴻池家は、はじめて清酒諸白[もろはく](原文では、”雙白澄酒”)を製造し、江戸まで出荷した。近隣の池田・伊丹・灘・西宮などでは鴻池家にあやかって酒造業を起こした者が数百軒もあった。
鴻池家の屋敷のうしろには大きな池があり、これを鴻池といった。これは村の名の由来となり、またその名前を大坂の店の屋号として用いた。
鴻池家が酒造を始めた年、屋敷の裏に稲荷の祠[ほこら]を祀って家内安全を願った。幸元の子供らのうち大坂で分家した者は三家、そこからさらに九家が分かれた。大坂の鴻池家の富は莫大になっている。
宝暦13年(1763年)秋の台風で祠が壊れた。20年後、当主たちが集まり、「先祖の遺徳を忘れてはいけない。祠を再建する費用はわずかであるが、一人だけ出せば、他の人は祖先の恩徳を忘れてしまう。皆で出し合おう」ということになった。天明4年に祠が復旧されたとき、それらの事情をすべて石に刻んで残そうということになった。幸元から数えて7代目の当主元長の子、元漸[もとやす]は自分(中井履軒)の弟子であったので、元漸の依頼によってこの銘文をつくった。”
160710 (82)伊丹・清酒発祥の地碑_本文翻刻
碑文の原文。

★碑文における清酒の記述と”清酒発祥の地”について
160710鴻池稲荷祠碑_雙白澄酒
石碑には、「鴻池家は酒造によって財をなし、慶長5年(1600年)から200年も続いている」ことや、「鴻池家は、はじめて清酒諸白(原文では、雙白澄酒)を製造し、江戸まで出荷した」ことなどが記されています。「雙白(雙は双の旧字)」は「諸白」を指すと思われますが、”麹米と掛米の両方に(玄米ではなく)精白米を使う”この醸造法は、平安~室町時代から既に存在していました。

・諸白[もろはく]:麹米、掛米ともに精白米を使用
・片白[かたはく]:麹米は玄米、掛米には精白米を使用
・並酒[なみざけ]:麹米、掛米ともに玄米を使用

清酒を「諸白」と考えるなら、清酒発祥の地は”南都諸白”で有名な奈良県の正暦寺を指すのが妥当かと思われます。
しかし、当時の酒は諸白であっても”澄んだ酒”とは程遠かったようであり、”より透明度を高めた澄酒”を清酒(の概念のひとつ)とするならば、この伊丹を発祥地とする考え方が成り立つのかと思われました。

日経電子版の記事には、伊丹市博物館の藤井裕行副主幹による以下の指摘が紹介されていました(『関西に2カ所ある「清酒発祥の地」 どちらが本物?』2012.10.27付より)。
・”伊丹は木炭でろ過してすっきりした味と香りの清酒を造り出した。それまでの濃厚な甘口とは違う辛口の酒。”
・”伊丹の酒は輸送に耐えられる品質を備え、江戸で評判になる。容器もそれまでの甕(かめ)から軽い木のたるを使うように。”
・”江戸後期に著された「日本山海名産図会」には「伊丹は日本上酒の始とも言うべし」とある。”

藤井副主幹は同記事のなかで「伊丹の酒は奈良酒の基礎技術がなければできなかった」としたうえで「伊丹は辛口の酒で江戸を中心に市場開拓した」と言及しています。この点からも、伊丹は「木炭でろ過した辛口の、より澄んだ酒」を造り、「江戸送り」をしたという点において、清酒発祥の地とするのが妥当なのかと思われました(”木炭”ではなく”木灰”を使ったという説もあります)。

★清酒のろ過に灰(または炭)を使うようになった背景
鴻池新六が”灰(または炭)を使ってより澄んだ酒”を造った背景には、他にもいくつかの説がありました。

【A説】酒だるの中にかまどの灰を入れたざるを誤って落とした。
【B説】使用人が腹いせに灰を投げ入れた。
【C説】出雲の地伝酒を手本に研究を重ねて造った。

【A説の出典】産経WESTの記事(『伊丹か奈良か「清酒発祥の地」論争…加速する清酒離れ、ともに譲れぬ〝一線〟』2014.1.13付)より
”伊丹市観光物産協会や市によると、伊丹での清酒の誕生はこう言い伝えられている。(中略)。慶長5(1600)年ごろ、酒だるの中にかまどの灰を入れたざるを誤って落とした際、にごり酒が澄み切って味が良くなったことから清酒が誕生した。”

【B説の出典】鴻池直史(Wikipedia)より
”『摂陽落穂集』など多数の文献にある清酒の伝承によれば、「鴻池山中屋の店で叱られた手代が、腹癒せに酒樽にかまどの灰を投げ込んだために、濁り酒が豊潤な清酒になった」というものである。本格的な清酒の生産は日本の最初とされる。”

【C説の出典】「月に捧ぐは清き酒 鴻池流事始」小前 亮著より
鴻池新六が出雲の国の地伝酒(灰を醪に混ぜてから搾る)の話を知り、同地に赴いてその技術を学び、改良を重ねて澄んだ酒を造り出した。

日本酒造り、特に上質で見た目にも美しい酒を造るためには複雑で繊細な作業が必要と考えられるため、A説やB説のように「たまたま」や「偶然」できたものと考えるのは無理があると思います。(史実に忠実かは不明ですが)小前氏の小説が指摘するように、研究と苦労を重ねて造られたと考えるのが妥当かと個人的には思います。なお、同小説では、商売敵が”酒に灰を入れる”というネガティブなイメージを強調して鴻池を蹴落とそうとしたという記述もありました。

★鴻池家の系譜~鴻池家の登場人物は名前がたくさんあるからややこしい!?
鴻池家の始祖”鴻池尚文”は、有名な戦国武将”山中鹿介”の息子と言われています。この両者が複数の名前を持ち、出典により様々な姓名の組み合わせが使われているため、当初は混乱してしまいました。

父親(武人)→【姓】山中 【名】幸盛、鹿介、鹿之介
本人(商人)→【姓】山中、鴻池 【名】新六、新右衛門、尚文

父の山中鹿介は山陰の尼子氏の家臣でしたが、毛利氏に滅ぼされてしまいました。そのため、息子の新六は叔父の山中信直のもとに預けられて育ちました。新六は武士ではなく商人として生きることを選び、商売の妨げになることを危惧して、武士の出自は隠すことが多かったようです。尚文は当初は菊炭を扱い、その商いが困難になると次いで酒造を行うようになりました。尚文たちは木灰を使ってより澄んだ辛口の酒を造り出し、さらに江戸への酒の輸送を進めたことから商売が大きく広がりました。その後、一族が大坂に進出して両替商に転じ、鴻池善右衛門家を中心とする同族集団は江戸時代における日本最大の財閥に発展しました。
三菱東京UFJ銀行の前身のひとつである三和銀行は、鴻池銀行が1933年に三十四銀行・山口銀行と合併して誕生した銀行です。

160710 (114)伊丹・鴻池交差点
鴻池稲荷祠碑の近くの”鴻池交差点”。

(初稿)2016.10.30

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Nomura Seiji

Author:Nomura Seiji
・お酒と薬膳理論の入門講座、飲酒教育
 nomuras.jimdo.com
・JSAワイン検定講師
・JSAワインエキスパート
・1971年生
・東京在住

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